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連続テレビ小説『あさが来た』第一週 小さな婚約者 #あさが来た #朝ドラ
朝ドラはけっこういろいろ見ているけど、半年間通しで感想を書こうと思ったのは初めてです。世間はすでに第三週も終わりかけているのに、やっとこさ第一週です。いやはや大変でした。ざっくり見た目は「んー、するする入りすぎて書くことないかも…」だったのに、いざ着手すると書くことだらけでもう。こんなに見所満載なドラマは久しぶりかもしれません。

大変すぎて、正直ラストまで走りきる自信はありませんが、とりあえず続けられるかで続けようかと思います。

下記からスタート、ネタバレあります。なかなかまとまってませんが、その点はご笑納をば…




第一週は今井あさとその家族が中心に、あさと姉はつの嫁ぎ先である大阪加野屋、山王寺屋、さらに五代才助との邂逅が描かれる。

原案(『原作』ではない点もうまいなと)は古川智映子著『小説土佐堀川』。それを元にオリジナル要素を膨らませたもの。



『朝ドラ初の江戸時代』という大きな冒険でスタートし、モデルとなった広岡浅子の人生が文字通り『経世済民の女』を地で行く波乱万丈なものだからこそ、第一週を手堅く固めたのだろうと考える。

とにかく観る側への感情移入のアプローチが非常にうまくて恐れ入る。こんなに丁寧な創りのドラマは久しぶりな気がする。特に前作で濁りきったソウルジェムが、たった1話2話で浄化されるというのはどういうことだってばよ!w


第一週のテーマは『紹介』『顔見世』とでも言ったら良いかも。

一ヶ月〜三ヶ月の前半戦を彩るキャラクターを見せることで登場人物との関わりを印象付けるとともに、両替屋という江戸時代特有の職業を通して当時の風俗や世相という背景を上手に説明している。

うるさくないアナウンサーや、隅々まで行き届いた所作、『代々の豪商(成金ではない)』という設定にふさわしい洗練された大道具小道具。着物の美しさもさることながら、役者さんの演技のレベルが非常に高い上、展開にそつがない。

このドラマ、例えるなら『友禅流し』のよう。厳冬の清流で美しく色づけされた反物が流れの中で揺らめくような。その色づけは華美であるが過剰な派手さはない。とかく印象に残ろうと間違った努力をし、結果的にあざとさだけが残るような『作り手のでしゃばった欲』が無い。

あるいは『白飯と味噌汁』。それも米を正しく磨いで炊き、出汁をちゃんと取った味噌汁のようなもの。

逆に言えば、ある意味激辛カレーや脂こってりステーキ、クリームたっぷりのケーキに比べると毎日食べるには物足りないだろう。そういうタイプのドラマが好きな方には、「安易で単調、先が読めるしつまらない」と評されても仕方ない。

ただ、「『対立や諍い、嫉妬と言うネガティブな刺激=即、現実を描いている』とは、実は言い難いもので。そもそも「刺激を受けることで考えることが出来る」という思考は、ある意味薬物的なものに頼るようなもので、次第に心は麻痺、より過激なものを求めてしまい、最後は心身共に疲れ果て、そんな自分を擁護するためにドラマそのものの評価が曲がってしまうことも少なくない。

そんな『諍いや対立こそ現実、現実を見せてこそのドラマ』という視点で言えば、『あさが来た』は一見、何の波風も立たない、ごくごく当たり前の家族の描写にすぎない。決められた婚約者の下に嫁ぎたくないそれは、恵まれすぎたお嬢様の贅沢な悩みであり、ある意味物足りないかもしれない。

しかし、下手を打てば単調な文切り芝居に陥るところを、『あるべきことをきちんと描き、必要のないことは書かずに省く』ことを徹底したことで、きめ細やかな磨きのかかったドラマになった。時代の描写、考証のあり方、価値観の提示、それぞれの人々の心情。『波風立たない、当たり前すぎる平穏な幼少時代の中、漣のように沸き起こった婚約者問題と解決』は、小さな必然の積み重ねを逃げずにきちんと描いたことで成功したと言っても過言ではない。そしてドラマに対する確たる信頼の礎になったことは間違いなく、たとえいっとき視聴率が落ちも、この点だけはブレずに最後まで貫き通して欲しい所存です。


さて、第一週で描かれる幼少期のあさ。お転婆すぎるお転婆の女の子を取り囲む、姉、両親、女中、そして許婚。豪商今井家の代々の決まりごととして、娘は親が決めた他家へ嫁ぐ。

「なんでやの?」と疑問をあからさまとするあさ。
「そんなもん」と、我慢強く従う姉のはつ。

子役二人の演技もあいまって、愛らしいことこの上ない。何より二人がお互いのことが大好きで、想いあっているのがすごく良い。下手なドラマだと妙な対立志向や下種な嫉妬を混ぜたりするが、不必要なマイナス感情がない分上品で育ちがよく見える。

また、この『不必要な対立感情や下種な嫉妬心』がない為、逆に二人の対比が色鮮やかに描き出されて、双方の許婚にも波及している。ふんわりとした遊び人、次男坊の新次郎。無表情な『白蛇』はんの惣兵衛。加野屋、山王寺屋の雰囲気にも反映され、はつの苦労が今から想像がついて仕方ない。

この姉妹を時に厳しく、時に優しく、手塩にかけて育てる父親と母親の存在がまた良い。特に父親役の升毅の「こら、あさ!」のどなり声が全く耳障りでないのは特記事案。感情的な怒鳴り声でもわめき声でもない。裏にちゃんと娘を心配する父親の愛情を感じられる知的な怒鳴り声だ。

母親役の寺島しのぶも、はまりすぎて素晴らしい。『剣客商売』の三冬さんだったのに、とちょっとしみじみしてしまう(笑)。

この二人が説くのは「女子は学問などもってのほか。殿方を喜ばせる芸事を嗜み、ひたすらお家を支えることが大切」。実はこの価値観こそが重要な『あさが来た』のキーワード。当時の常識をきちんと唱えてこそ、あさの先進性が映えるというもの。

同時に、この古臭い、今の時代にはそぐわない考え方でも当時は至上のものとされ、それが湾曲なくきちんと観る側に伝わってくるのが実に良い。そこには当事の価値観と大店としての責任を果たすべく努力する一組の夫婦であり、同時に二人姉妹の両親として、「嫁ぎ先で幸せであって欲しい」、出来の悪い娘は出来の悪いなりに、我慢強い娘は我慢強いなりに、心配の種なのだときちんと描かれている。

『お家のため』は嫁ぐ娘だけでなく、嫁がせる両親にとっても、逃れなれない宿命なのだと悟ることが出来る。双方の視点があり、多角的なものの見方ができる。そこが『無理やり嫁に行かねばならない』感というストレスにならずにすんでいるのだ。

もちろん、このままではあさという存在の方向性が見えなくなる。あさの性格と両親の価値観の衝突だけでは、物語は煮詰まってしまう。だから、あさの存在を全肯定してくれる『おじいちゃん』がとても大切なのだ。

「なんでや思うて立ち止まることができるから、あさはえらい
 なんでや思う人間が、世の中を変えていく。前を向いて進め。」

そして

「女子には、女子のやわらかい良さがある。今は時代の変わり目。
 みんなで力を合わせ、切り抜けていくんやで」

今の時代、誰もが当たり前だと思うことが、実は当たり前でないこと。その視点で、新たな時代の価値観の礎となったひとりの女性の生き様の、始まりの物語でもあるのだ。


以下、1話づつを簡単にまとめています。





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『劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza』
アニメ本編も映画前半もまとめきってないのに、いきなり後半の感想です。

結論から言えば、原作のシーンをうまく使いながら、オリジナル展開できれいにまとめた優秀作。観た直後はまとまりすぎて感想が思いつかなかったぐらい、きれいすぎましたが(笑)、2時間で全ての決着をつけるとしたら『ここに落とすしかないよね』って感じ。ほぼ100点。難を言えば、艦隊戦がすごすぎて何やってるか一回だけじゃ解らないぐらいw
何度も観に行ったらきっと解るぜこれ。というか、大画面大音量で観ようぜー!

でも、タカオの『アレ』が持ってっちゃうんだよな! ひどいぜ!ww


以下、がっつりネタバレあります。






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「朝ドラの、純粋な『主人公』は、叱られ反省して罰を自覚して成長すべき」という考えがある
朝ドラだけの傾向かもしれないけど、「純粋な主人公は罰を受けるべき」考えがある。ごく一部だけど、割と昔からある。私もその一部の人間だった。

「『主人公』は無邪気なヒロイン様で自分の好きな道を選んで生きていけるけど、影で泥を被って泣いてる人が必ずいる。その無邪気さは毒だから、主人公は自らの毒に気づいて自覚し、『罰』を受けなければならない」

『主人公』は、主人公だから純粋でいられるから。
『主人公』はヒロイン様で世間知らずに決まってるから。
『主人公』だから、誰かを踏み台にして幸せを奪ったのだから。
いつかそれに「気づき」「反省し」「学ばなければならない」。

私もそんな風に思ってた。『主人公』とは、『ヒロイン』とは特権で、その分誰かを傷つけて生きることに対し、必ず自覚して反発を受けなければならないんだと。


だけどある日、突然気がついた。

きっかけは『マッサン』だった。日本に来たエリーの前に、政春の婚約者と名乗る女性が現れて嘆く姿と、戸惑いながらも誠実に接しようとするエリーの態度に。

ふと。「いや、『それ』って違うんじゃないのか?」と。

エリーは、婚約者を傷つけたくて傷つけた訳じゃないし、婚約者も、本当はエリーを許したいだけなのだと気がついて、不意に目が覚めた気持ちになった。

彼、彼女は、みな、一生懸命生きているだけだ。一生懸命生きるということは、思いがけず、大切な誰かを悲しませたり傷つけたりする。

それだけのことなんじゃないのかと。

同時に自分の抱いていたそれは、『因果応報』を理由にした『歪んだ懲罰感情』だったと理解した。そして「学ぶこと」を『罰』を考えている自分にも。

「自分はなんで、こんなに歪んだ懲罰感情を持ってたのだろう」。
「いつから、そんな風に考えていたのだろう」。
「何を根拠に、そう考えていたのだろう」と。


ひとつ言えるのは、『そうしなければバランスが取れない』という間違ったバランス感覚が、自分の思考を縛っていたのではないかと言うことだ。

過去、何年にも渡り、『連続テレビ小説』は多くの物語を紡いだ。『ちりとてちん』や『カーネーション』のような、自分にとって生涯の傑作に出会った反面、『まれ』のような『表現者が行ってはならない境界線とはなにか』を反面教師的に教えてくれるものもある。他にも忘れてしまったもの、遠い思い出の彼方からひょっこり顔を覗かせ手を振るように心を温かくさせるもの。思い出しただけでも涙が溢れるもの。


ただ、全ての作品に言えるのは「主人公は純粋ではなく、『ただの、見ている我々と同じ愚かな人間』なだけ」だけだということ。


人間とは歪で不完全な生き物だ。そして『主人公と言う人間』は一人ではなく、あの画面の中にいる全ての人間が主人公なのだ。彼、彼女達がそれぞれの想いを胸に抱き、時に手を取り合い、時に袂を分かつ。そうして愚かな人間達の積み上げられていく美しい物語の形を、自分は見ているにすぎないのだと思った。

そして「誰かを踏み台にして得た幸せに浸ってる」とか、「主人公は純粋だから学ばなければならないとか」という考え方が、ひどく狭い了見であり、自分自身で偏狭な型にはめ込み、ドラマをつまらなくしてただけだったのだと悟った。

主人公は自分が幸せになるために努力する。その努力の中に、取り返しのつかない失敗や、修復不可能な人間関係も含まれる。彼らも彼女も胸に抱き『忘れずに生き続ける』からこそ、名作や傑作が生み出されるのだ。

主人公がガツンと言われて溜飲が下がるシーンはあっても、それだけでは何の稔もはない。

真の感動は、「無知なる主人公へ罰を期待する」ことでもたらされない。彼ら彼女らが迎えるのはあくまで試練であり、形は違えどいつか乗り越えるために存在するものだ。それは同時に、登場人物たちがそれぞれの心の傷や自分の行ってきたことから逃げずに向き合った末に得られる結論の形であり、その全てが観る側の望む形でないが故に、受け手の心が揺さぶられるのだ(もちろん、そのためには制作側への揺ぎ無い信頼が最低限の条件になってくるのだが)。


人が生きる姿を哀しくも愛おしく思うこと。自分の間違いに気づいたことで『物語を楽しむ基本』がやっと見つかり始めてきたなあと思う。
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