あさ「お父ちゃんがなあ、昔むかし、うちに言うてくれましたんや。選んだ道を、まーっすぐ進みて」
千代「おかあちゃんが、押入れに入ってて、許婚やったおとうちゃんがパチパチはん、持ってきてくれたって…」
あさ「……嬉しかったなあ……うち、嬉しすぎて…ずーーっと進みすぎてしもた…」
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最終週、新次郎が倒れ臨終間近の時。あさが娘の千代に呟いた言葉。魂が抜けたような相貌。何を選んでも後悔しない生き方をしてきたあさ。何があっても決して振り返らず、前だけ見続けて疾駆し続けたあさ。
そんな彼女が初めて見せた、深い深い後悔と。それに打ちのめされる弱弱しい姿。
義父正吉に「泳ぎ回らないと死んでしまう魚」と喩えられ、ひたすら走り続けて来た彼女にとって、それは初めて立ち止まった瞬間であり。傍らにいつもいると思っていた新次郎の。その、心の底に沈めていた深い深い孤独にあさは思い至り。改めて『取り返しのつかないことをした』と、深く悔いる姿。
ここに至るまで、これほど深い悔恨を描くことは無かった。千代に対し申し訳ないと、押入れで一人泣くシーンはあったが、それさえも最後は仕事を選び取り、言い訳ひとつしなかった。
彼女が孤独に耐えるシーンが無いのは、隣に新次郎がいたから。新次郎が傍にいて慰め、励ましていたから。
あさは、新次郎の気持ちを踏みにじった訳ではない。新次郎自身、あさの働く姿を見ているのが好きだというのは、本物の気持ちだからだ。もし、そう言い立てる者がいたら、新次郎はきっと怒っただろう。
また、あさも新次郎の支えを当然のものとし、夫に対し傲慢に振舞うことは無かった。必ず「おおきに」と感謝を述べ、夫の言うことを理に適うものとして受け入れた。かといって盲目的な従順ではなく、よく学び、自分の頭で考え、きちんと咀嚼して判断した上でのものなのは言うまでもない。
二人にとって、仕事の失敗は『失敗』ではなく乗り越えられる障害。
人間関係の対立相手も『打ち倒す敵』ではなく、交渉相手であり遠い未来の同志。
この半年、私たちが見てきた姿は。二人で納得して選んだ道を歩む軌跡だった。
それでも、それでも。
選ばなかった道に対して。取りこぼしてしまった他者の気持ちに対して。申し訳ないと深く思い馳せるのが、『人間』というものなのだろう。
傍でふたりをずっと見ていた五代友厚は、あさと新次郎を『比翼の鳥』と喩えた。空想上の生き物で、隻眼隻翼の鳥が雌雄一対であわさり、初めて空を飛ぶことができるのだという。
40年余年、軽やかに飛び続け、愛を語り合った鳥は、半身を喪うことで『人』に戻る。その、魂を引き裂かれる痛みを湛えた『白岡あさ』の相貌の美しさは。表情豊かな過去155話を一瞬で塗りこめてしまうほどの凄みさえあった。
物語を盛り上げる為の理不尽な対立を描いたり、不条理な追い詰め方をしなかった『あさが来た』という物語。問題提起から解決までの速度が速く、シナリオの都合で、無駄にいがみ合わせる事も、不当に選択肢を奪った上で追い詰めることもしなかった。
その造りにもちろん功罪は存在し、批判もあるが。
だからといって、それらを肯定したとしても。『綺麗事だけの物語』とは、どこかどうしても思えない何かがあった。
美しい物語はその懐に刃物を呑み、軽やかで心が温まる笑いをふりまきつつ、ゆっくり研ぎ澄まし。全てが想い出に変わり喪われようとした瞬間、あさの、あの表情と言葉となって、私の胸を突いたのだから。
その後に救いの雨は降ると分かっていても。あさの人生はその後も続き、新次郎の遺志を継いで生きていくと分かっていても。書物のどこにも記されない、喪われ逝くものの痛みを学んだあさの、あの儚くも美しい貌が忘れられないのだ。
■『あさが来た』関連の雑感まとめ
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#あさが来た 『五代友厚』というキャラの役割のこと
ただ一人実名で登場したメインキャラ『五代友厚』のシナリオ内の役割をあれこれ考えてみたこと