最終回第12話『OMNIA VINCIT AMOR 愛は、全てに勝つ』を観た第一印象が、『とにかくexhibitionに触れて無くて良かった。つーか頼むから触ってくれるな』でした。
「『ルール判定を行う為には、まず選手の気持ちを理解しなければ』と、審判自身がグランドでボールを追いかけ始めたサッカーの試合」
…のような内容が評価に値するかどうかは、もう各々の価値観に委ねるしかねーんで、このエントリーを最後にアニメには二度と言及しません。私個人はアニメ版はもう感想を言う価値すらないと思ってるんで、正直どーでもええです。
谷口悟朗は金輪際『純潔のマリア』及び原作つきのアニメ化に触れて欲しくねえってのが、偽らざる率直な感想です、はい。
とはいうものの、
アニメ化されて良いこともありましたよ。アニメと原作の差を比べることで再評価できたこと。自分では気づかなかったマリアやジョセフ、天の教会の見識のこと。元々大好きでしたが、原作者が一番描きたかっただろうことに気づくことができたのが、アニメ化の一番の収穫だったかもしれません。だから、こういう駄文をだらだら書けたのかもしれませんが。
やはり、このエントリーで、いったん終わらせようと思います。
文句や不満は、今までのブログやツイッター方面で散々言ってきたけど、その、もっとも深い根っこは何かを考えあぐね、ああでもないこうでもない。書いては消し、書いては途中でやめ、放置した間も脳内でこねくり回していましたが、そろそろ形にしてしまおうかなーと(いい加減もっと面白いことに時間割きたいし)。
アニメ『純潔のマリア』と原作のそれと、決定的に違う「ひとつ」を見つけ出すのに、ずいぶん手間取りましたが、何とか削りだせそうです。
『純潔のマリア』と言う物語の、もっとも大切な『軸』が自分の中でブレてる。これが作中でとても気になっていました。
過去のエントリーでもいろいろ書いたが、なぜこうも視界がブレまくるのか。原作云々を抜きにしてアニメ単体の評価としても、どうしても収まりが悪い。
主人を殺されかけたのに、殺そうとした相手をあっさり許している使い魔とか
餓死しそうな仲間がいるのに、マリアをへらへら許してる魔女達とか
強姦の画策に乗るのに、結局嫌がらせレベル思考で行為に至らない傭兵とか
『主人公の責任を声高に責める反面、周囲を囲む人々の生ぬるい行動』が焦点をボヤけさせてるのもあるけど、その中でももっとも大きな違和感が、「天の教会のスタンスが変」というもの。
アニメから入った方や、割り切れる方には「所詮あんなもんだ」なんですが、原作を知る身としてはどうしても、どうしてもピントが合わずにぐぎぎとなってしまう状態が気持ち悪くて放置できず。
「天の教会は地上の理に干渉してはならない」と言いながら、エゼキエルの行動が、それと相反することが多かったこと。あのまま放っておいてもマリアの立ち位置は悪くなったし、『地上の出来事で収める』なら、むしろそれで良かったのだが、エゼキエルが一枚噛むことで『より悪いほうへ転落』。上司ミカエルもエゼキエルを放置。むしろビブを止めエドウィナは見過ごす等、一貫性が無く気まぐれのように動いたこと。
そして最終回のデウス・エクス・マキナ。
正直、ここまで『しでかす』とは全く考えておらず、ダブルスタンダードを平然と行う天の教会、及びその重要性をまるっと無視したアニメ製作側の姿勢に呆気にとられ、文句を言う気力すら無くなったのも、まとまらなかった理由のひとつだったり。ミカエルが地上に光臨したことで、力を入れたと証言した時代考証や戦場描写すら台無しにしたことを、アニメ製作陣は全く理解できていないことに深く失望した次第でもありますが。
TRPG脳なので、ここまでの状況をよく
「『今日はこのルールで遊ぶよ』と言い出したGMが、ゲームの途中で『このルールだと僕の考えたお話がおかしくなるから、ここのルール今から変えるね』と言い出したようだ」
とか
「ゲームの最中『僕の考えたNPCを活躍させたいから、君たちのPCはその邪魔にならないよう動いてね』と言ってるよう」
とか
「『このダイス目だと、僕の考えたお話通りにいかないから、無かったことにするね』と言い出してるようだ」
とか喩えて考えてて。
しかも「みんなが幸せになれる終わり方にするよ、悪いようにはしないから」って言ってるようだなーとも思ってて。
『もやもや』の大本を辿ると、アニメ版はつまり『理(ルール)に対する考え方』が曖昧ではっきりしていない点に集約されるんだなと考えていた訳で。
もちろん「楽しければそれでいい」は当然。「見ているみんなが楽しめる形で終われれば、それがベスト」なのかもしれない。ルールに縛られギスギスするのは馬鹿馬鹿しいかもしれない。
しかし、そのうち一番大切にしなければならないものまで明け渡してしまったら、相手の都合に振り回され、結果的に全てを失うことになりはしないだろうか。
アニメ版『純潔のマリア』は、話の都合を優先しすぎて、引き渡してはならない最後のひとつ。動かしてはならない一番大切な『理』を、製作側の都合で動かしてしまったから、「手軽に感動はできるけど、芯の定まらない物語」になってしまったのだなと考えます。
■己の決めた『理』に従うか、己の都合で『理』を従えるか
『純潔のマリア』の根底を支える思想は、「神の愛をどう理解するか」であり、その解釈はイコール天の教会の有り様に反映される点にあったこと。
結論から言えば、
谷口悟朗の描く天の教会は「自身が決めた理であるからこそ、その時々の状況に応じて自分で基準を変えられる」。
石川雅之の描く天の教会は「いかなる状況にあっても絶対に理(ルール)に従わなければならない。それが理を決めた本人自身であっても」。
つまり、原作は『理>>>神>地上』であり、アニメは『神<<<<理=地上』という視点で物語が組み立てられていたのだと解釈。
この『理』の理解の差が、まともに作品に表れたのだなと考えます。
理解のきっかけになったのは、原作版3巻の一コマ。
「見守るってとっても大変」
「見ていながら救いの手を出せないって、きっととても苦しいことだよね」
「あまりに辛くて涙が枯れきって」
「心が失われてしまってもおかしくないもの」
台詞でさらりと流しているが、この意味を理解した時、アニメ版の神の存在との大きな違いが明確になった。
原作版の『神』とは「自ら決めた理に従い、代償を払い続ける何者なのか」なのだと。人を殺し続けた果てに地上から手を引き、天上から見守るのみ。自らの心を壊し、失い、それでもなお人間の全てが「理の何たるか」の理解できる日を信じ、成長を願い続けている存在。
つまり、強大な力を持ちこの世を創り上げたが、理の前に膝をつき従わなければならないという意味では人間と同一。いや、強大な権利を有するが故、引き受けた義務の重さは人間とは比べ物にならない存在ということなのだ。
ミカエルが怒りに任せビブを刺したのは、「愛を知らない」と嘲られたからだ。愛するからこそ、手を出さず人間の成長を見守り『その時』を待っていることも知らないで何を言うのかと、そんな気持ちだったのかもしれない。
同時に、アニメ版のミカエルがああも簡単に地上の人々の前に光臨できたのか、エゼキエルの、あの配慮の足らない行動となったのか。すごく納得できた次第。アニメ版の神とは、ただのシステムの守護者でしかなかったのだと。苦しみも葛藤も無い、ただ、神同士の権力争いの勝者でしかなかったのだと。
↑ミカエルに触れた為塩となったベルナール。彼こそ、その進みすぎた思想のため、地上の人々の手で断罪されねばならなかったのでは? アニメマリアで最も「全うな」登場人物だったからこそ、このような幕引きでもったいない限り
アニメは地上の教会ほど、天の教会の描写に力が入ってない。というより、地上の人々の目線に合わせれば、天上の神とは『人智を超える存在』『信仰の対象』以外の何者でもなく、その裏で彼らが払う代償など思い至らない(と言うか、天の教会はそもそも代償なぞ持ち合わせてない)。
そして神は神で、自らの力の源を保つと言う理由から、人々に「忘れられない」ようアピールを行うという利害関係の中にあった。ただ、地上の描写に力を入れすぎ、情報量が多くなったもののきちんと整理されてないから『重みが無く、ごちゃっとした印象』で終わってしまったのかもしれない。
他のアニメなら、それでも良かっただろう。しかしこれは『純潔のマリア』というお話のアニメ化だ。神の愛を説き、天使の孤独と魔女の理想を体現したお話なのだ。一番やってほしくなかった展開だったなーという感想が拭えず。
地上と対を成す『天の教会』のスタンスをもっと真摯に詰めることができたら、信仰の重さを理解できれば、あるいはもう少し評価は変わったかもしれないし、谷口悟朗に一番期待していた点ではあったけれど、「やる気が無かった」んじゃしょうがないなあ。
いや本当に、『百年戦争の時代のフランスのことを勉強しました』アピールは熱心だが、正直ストーリーのギミック以上の扱いでしか無かったのは非常に残念で。その時代の倫理や宗教学を学ぶ、ということは、彼らがその時代を生きる上での『宗教』のスタンスに従うことでもあるはずなんだが。
本当に『理解』出来ていれば、最終回でミカエルと言う『信仰の対象』が人々の前に顕現するなど軽々に出来ないはずなんだがね。その時代、人々が平伏すしかない『最高最大の権力者』が、直接介入した上にマリアの味方につく。…結局、天上の教会とは、アニメスタッフ自ら広げすぎた地上の描写と、マリアへの反感を納めるための『安い道具』でしかなかったのだなーと。
だから「マリアにばかり一方的に従わせ、天使は神であることを免罪符に自らの行いに見てみぬふりをしている」片手落ちな状況になっているのだろうか。
↑これだけ観ると「いい終わり方」なんだけど…エゼさん、君は天使の使いとして何か全うな仕事できたのか? いくらなんでも能天気すぎねえかなあ…
うん、すげえがっかりでした。原作レイプとかそれ以前の問題で、「谷口悟朗は原作の意図を汲む人じゃなく、自分の主張に合わせて捻じ曲げ、悪改変するタイプの監督だった」事実に。そこに気づかなかった、自分のものの見る目の無さに。
そういえば『プラネテス』でも原作ファンが怒ってたな…タナベとハチマキが別人だと。あの頃は単純にアニメ版が面白くて「原作は原作、アニメはアニメと割り切ればいいのに」って思ってました。作品の根幹を捻じ曲げられたら、そりゃあ怒るよね…怒る権利あるよな…『プラネテス』原作ファンの方、あの時は分からなくて本当にごめんなさい。
そういえば。
2,3話目あたりで「この先ガルファは右腕を無くし主人公と対立するよ」と教えてくれた友人が、同じ頃「OPのミカエルは谷口監督自身。あの目のアップは『僕の望むお話を作るから、そのつもりで観てね』ってメッセージ」って教えてくれまして。
マリアのOPあまり盛り上がらないなー、見所は弩の巻上げかなー程度にしか思ってなかったので、この視点にはちょっと驚きました。実際そのとおりになった訳で、「OPって、だいたいアニメの主題が現されてるんだけど、マリアほどあんなに雄弁なOPは無いよ」との友人の言葉に頷くしか。
さすがに『谷口監督はミカエル自身』はおこがましいなーと思ってましたが、今ならうん、ありかもしれないな。