アニメ版『純潔のマリア』の感想です。正直、かなりアレです。内容は下記エントリーに属するものです。
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アニメ版『純潔のマリア』は面白いけど、なんだか『もやもや』すると言う話【追記】
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その時代考証は、何のためにあるのか−『純潔のマリア』雑感【追記】
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『純潔のマリア』9話 LIBER IX『CUM GRANO SALIS 一つまみの塩を』
原作ネタバレあります。アニメ版が好きな方には申し訳ないものになっています。また「原作好きでアニメも分けて観られる」方にも不向きな内容なので、読まないことをお勧めします。読んだ上で不愉快になっても、責任は取りかねますすみません。
なお、ここに書かれる感想は、あくまで私個人のものです。アニメ展開が好だと言う方を否定するものではありません。その点はご了承ください。
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遅ればせながら『純潔のマリア』10話。エドウィナの猫ちゃんがかわいい! エドウィナよく頑張った。『マリアの魔法が使えない理由』『ジルベールの薬は猫ちゃん経由で購入=異端の薬を教会が使った』の落としどころが、残り二話の鍵になるのかな。
戦争と火刑を交差して盛り上げる構成は、とても巧いです。『アニメで魅せること』に手馴れてるなと。実際「助かる」と分かっていても、引き付けられましたからね。
ただ、異端審問に時間取られすぎて、そのまま原作の流れに持っていけるのかどうか。行けても馴染めるのかどうか。むしろ終わり方を変える方が『別物』として割り切れるんだがな。これだけマリアが「戦を止めるのを止めない」と突っぱねた状態で、あの選択をするとしたら、かなりグダグダになってしまいそうで、その点がちと怖い。
ガルファは思ったより小物だったな。「俺は王になる!」と叫んでた時はそれなりに面白そうな人物だと思ってたんだが、金のことでイーヴァンを殺した時点で、気づくべきだったんだ。さらに都合よくマリアやジョセフを逆恨みして、金という動機を捨てて禍根で動いたことが決定的だったけど。『所詮はその程度の人間』だったんだ。
たぶん、マリア(=信仰と教会)側の障害の対として、ジョセフ(=戦争)側の障害で立てたんだろうな、最初は。だけど、怨みで動いた時点で、その道は閉ざされてしまったんだ。『マリアに試練を与える役回り』であり、ある意味完全な当て馬だった訳だけど。
ただ、普通の人間なんだろうけどね。彼は一生、王の夢を見つつ、あらゆるものを逆恨みしながら『戦争に使われて』生きていくんだろう。そういう人生もありっちゃありだがね。
こういう救いの届かない人間を描くのは、面白いとは思うけどね。うまく掘り下げれば、もっと深みの効いたキャラになっただろうけど、原作という枠ありきの『純潔のマリア』では、あまり活かしきれなかったね。
↑マリアへの異端審問は、ラ・ピュセルの韻を踏むものだとも考えている。またキリストの受難の体言とも。ただ、それが『純潔のマリア』と言うテーマに沿うかどうかは別として。
あとやっぱり「史実的に正しくとも、過剰な暴力で屈服させること」は、石川雅之の世界には合わないとオモタ。確かにTVアニメは谷口悟郎の作品で谷口ワールドでは正しくとも、『原作者が存在する』以上、その意図を無視して語るわけには行かないわけで。
『もやしもん』の8巻のオクトーバーフェストの話や、12巻の西野さんの話、13巻ラストの樹教授を見るまでもなく、石川氏の描く『愛』は、『共に学び、共に歩もう』であり『証明などせずともそこにある。気がついて、拾いあげればいい』だと考えてる、あくまで個人的にね。そこに『暴力』の付け入る隙は全く無い。原作ミカエルもまた『人の愛を学ぶ』途上にある存在故に、エゼキエルの麦の話に耳を傾ける訳で…どういう訳かばっさりカットされてるけど。
↑もうアニメではやらないと思う、エゼキエルの麦の愛の台詞。畏れおののきながらの進言は、ミカエルの心を動かす大切なシーンでした。
谷口悟郎の『愛』は『試練を乗り越えて証明する』ものであり、物語を盛り上げるギミックとしては正攻法だけど、必要以上の暴力はいらなかったよ。たとえそれが史実的に正確であっても。むしろ、そんな史実は必要なかったんじゃないかしらね。それに、暴力で吐かせた言葉だから、印象がきつくなって引っ込みつきにくくなるんじゃないかしら。「私にも、譲れないものがある」。では、どうそれを証明するんだろう。
ばっさりカットといえば、ビブの「妬む神。ヤハウェは自らをそう称したわ」のくだりもバッサリだったなー。まあ、ビブが組合に吊るんだ時点で、ミカエルとの戦いの理由が変わると思ってたから、戦いの後のアルテミスとの会話は無くなるだろうなと。実際そうなった訳で。でも、これはカットしたら、後のミカエルとマリアの会話の焦点がぼけるんじゃないかなあ。
↑アニメでは「ミカエル様に触れることは困難です、だから」「だから何!?」で言い淀むエゼキエル。そこは「撤退してください」と言い切らないとって思った。『言い淀む』『俯く』『逡巡する』は『迷う』を表現する定石だが、それで『自分の仕事』を遂行しない理由にはならないのでは?と思ったシーン。…そういえば台詞も「ミカエルに触れることすらできない」が『困難』とか、甘めにボカされてたな…
地上の宗教描写には熱心なのに、天上の神の話はなぜカットするのだろう。『神の愛』こそが『純潔のマリア』のベースなのに、ビブの告発がないとぼやけるんじゃね? 大人の事情でヤハウェに絡む台詞が出せないなら、マリアの「ヤハウェはあと一日働くべきだったのよ」も必要なかったと思うんだが。
あとひとついやだなと思ったのは、『アルテミスがエドウィナの薬の件を、本人に伝えたくだり』。あのタイミングで、エドウィナの決断に過剰な責任をおっ被せたのはどうかと思う。そして『友達』がすごく都合よく使われてるんじゃないかなと。
「それを言われたら、断れない」じゃない。エドウィナは「そうと知らず」薬を作っただけなのに。その結果、マリアが危険な目に遭ったとしても、アルテミスが持ち出して恨み言のように「責任を取れ」と言わんばかりのシーンはある意味卑怯じゃないだろうか。
原作では友達以前の問題、『関わりたくもないマリアなのに、ビブによって連れ込まれ、ミカエルに返り討ちされたビブに代わって、見るに見かねてマリアを助ける決断をした』展開だった。アルテミスは何も言わない。エドウィナの気持ちの問題だから。エドウィナの使い魔の、『心の底からご主人を愛している』その気持ちが、エドウィナの背中を押したのだから。エドウィナの使い魔が主人を励ますシーンが無い(あの、くずおれたエドウィナに近づく足だけ写したのは、それを連想させるためのものだろうか)のは、ラストシーンで初めて『猫=使い魔』の正体を判明させたいと言う、製作側の都合なのだろう。
アルテミスが吐き捨てるように投げつけた『薬を作ったのはあなた』は、エドウィナを一番傷つけた台詞じゃないだろうか。確かにエドウィナの救出劇はカッコよかったが、その影で行われた『逃げ場を奪う手法』は、本来そのキャラが発揮できたはずの自主性、自立性を奪ったもので、私としてはどうかと思うのだ。「魔女狩りが始まるかもしれないから、気をつけて」で別れるのなら、それで終わった方がスマートだし『マリアの友人』を大切にした、使い魔の分別をわきまえた行動だったかもしれないが。
たったワンシーン。その後の怒涛の展開で「好感触」へ押し流されたが、染みのように心を汚す。そして、『責められた』その先の決定的なシーンを描かない、『気持ちのいいシーンで覆い隠してしまう、気持ちよくさせる』。『こっそりとそのキャラを状況で縛り、自分で考えさせてるようで実はコントロールし、引っ込みをつけなくさせて追い詰める』と言う、これは谷口倉田手腕のひとつ。10話に至るまで散々観てきた手法だ。
↑自分が焼かれるのを観に来た人々へ、ショックを覚え「私、バカみたい」と怯えるマリア。原作では、火刑に至る儀式の最中でも考えるのを止めなかった。というか、民衆にショックを覚えつつも、もっと客観視していた。『誰も、何も分かってない…あれ、違うんじゃないかな……分かろうなんて端からしないんだ…いや、そもそも、答えに辿り着くのを拒否してる? 目を閉じ耳を塞ぐことが処世術という事なのかな……』と深く考えた後、『私は何を分かってもらいたかったんだろう』へ至る。
マリアの逡巡が原作のような客観的なものでないと気づいたとき、「原作のマリアは『女の子』だけど、アニメのマリアは『子供』なのだ」と、改めて理解した。
原作は『人を幸せにしたくて、戦争を止めたかった』と言う理由がはっきりあって、だからブレなかった。その過程で『人を幸せにしたいなら、まず自分が幸せにならなければ駄目だ』と教えられ、そして『自分にとっての幸せ』『神の愛』を理解するまでのお話だった。
アニメはあえて『目的を見失わせて取り戻す』手法で12話を構成させた。そのための幼稚化・弱体化だとも理解している。この手のアニメを観る層には、むしろ「分かりやすく記号化した性格」の方が受け入れやすいのだろうとも考える。しかし、完結した一人称のストーリーを、無理に三人称に組みなおしており、そのひずみや綻びがあちこちに見える以上、原作通りの展開に戻ったとしても、きちんと収められるかどうか。
まあ、なんだかんだで巧く収めるんだろうな、とは思いますがね。
…そういえばミカエルは、なぜエドウィナを止めなかったんだろうねえ。ビブをあんなに必死で止めてたのに…