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アニメ版『純潔のマリア』は面白いけど、なんだか『もやもや』すると言う話【追記】
『純潔のマリア』のアニメは今現在8話終了。クライマックスに向けてどんどん盛り上がっている。そう、確かに面白い。地上の教会の暗躍、傭兵の野心、人心の揺れ様。その中で翻弄されるマリアとジョセフ。全三巻+1巻を元に、よく練られているように思う。時代考証もほぼ正確になされ、地味ながら手堅く作られている。

面白い。確かに面白い。
けど、もやもやする。

原作が心から好きで、「監督が谷口悟郎か! なら期待できる!」とアニメ化を心待ちにした自分が、ツイッターでずっとだらだら吐き出してきたのを元に、その理由をちょっとまとめてみたいと思います。

なお、原作版のネタバレをがっつり含みます。その解釈はあくまで個人者もであり、漫画公式ではないことをお断りします。またこれらの感想もまた私個人のものあり、アニメ版を面白いと思う人を否定するものではありませんし、「だから原作最高」と言う考え方を押し付けるものでもありません。

単に吐き出して楽になりたいがため、ただただ愚痴に終始するので、読んでも面白くないことウケアイです。

『アニメ版が好きで原作イマイチ』と思う人とか『原作好きだけど、正直これは引くわー』な方もいらっしゃると思います。不快なものになると思いますので、この時点で読まずに他サイトへ行くことをお勧めします。



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もやもやの最大の原因は、面白いと評価される要素の中にある

『主人公マリアの弱体化、幼稚化されている』点と
『物語が主人公矮小化に伴う挫折や失敗を立脚点にし、展開している』点、
『マリアに全ての責任を押し付ける展開に、製作側も乗っている』点かなあ。
『話のシリアスさに絵柄が追いついていない』点もあるので、作画ほんとにがんばって欲しいところ。

特に「マリアに現実とやらと見せつけ、よってたかってわーわーお説教して否定しまくるストーリー」って、違うと思ってる。だって原作は、そういう展開とは間逆の物語だったから。



↑原作でもビブは確かにこうは言った。しかし「価値観の押し付け」といわないし、ましてや「所詮その程度のものだった」なんて高を括らない。ビブはもっと大きくて、熱くて、カッコイイ女だ


最初にひっかかったのは1話。前の感想でも書いたとおり、アルテミスの「あなたの価値観を押し付けないで」と言う台詞。あの違和感はちょっと言葉にならなかった。「なんで他人事みたいなこと言ってるんだろう」と。

『純潔のマリア』はマリアの価値観どまんなかぶっちぎりなお話だから、押し付けもなにもあったもんじゃなく。そんなマリアを説教できたのは、それこそ天の教会だけだったから成立したストーリーであって。その台詞が世界観にそぐわないなと思ったこと。

また個人的に「価値観を押し付けるな」と言う言葉は『責める事で一方的にマリアを【悪者】【未熟者】として決め付け、マリアの落ち度を待っているようで卑怯じゃないのかな』と考えているので、使い魔としてマリアに従事するアルテミスが言うのはちょっとひどいと思った。


それでも「マンガとは展開が違っても『純潔のマリア』を選んだからには、その世界観に則したものになっていくのだろうな。まだ始まったばかりだし、もうちょっと待ってみよう」と思っていたが。

しかし4話でビブが「価値観の押し付けすぎ」を繰り返した点で、「アニメ版は『理想を貫きたいマリアを、周囲が寄ってたかってお説教する』物語になるのか」と確信。ある意味、一番手堅くもあり、一番やって欲しくなかったお話の作り方だなと思った次第。



↑原作ヴァルキリー達は忘れられた神々と言うより、越境スカウトしてきたおねえちゃんと言う感じ。『人間の営みとは別の流れに存在する』感じで、忘れられた神々という悲壮感はあまり無い。


もちろん、『純潔のマリア』にその構造を当てはめて再構成する点にあたり、異を唱えるものではなく、むしろ「全三巻+一巻と言う短い展開を12話にするには、オリジナル要素は必要だろう」と考え、歓迎してもいた。

話を作るうえで扱われる『成長物語』の型のひとつである、『理想が先走る主人公の稚拙さ、周囲との不協和音を描き、衝突と挫折を繰り返す中で社会性を学ぶ物語』を、私は否定しない。物語作りの定番だし、観るものの共感を一番得やすい展開にしやすい。

ただしこの方法は『主人公を無知無力とすることで、周囲を際立たせる』方法でもあり。そのことで主人公への責任や義務が集中、過度に背負わせるシステムでもあり。だからこそ、作り手が細心の注意を払ってバランスをとっていかなければならないのだけれど。

しかし、ここまでマリアと言うキャラクターが『矮小化及び幼稚化』するとは思いもせず。正直失望すらしている訳で…。


■原作版マリア

原作のマリアは『人に受け入れられたくて人助けをしてる』訳でも、『神になりたくて戦に介入』しているのでもない。イングランドの味方でもフランスの駒でもなく、自分の信念の味方であり、「ただ、人に幸あれ」を願い行動している。

その行動の根底には『深い孤独と愛への渇望』があり、それが余りに深すぎてビブに指摘されるまで(それだって上から目線のお説教ではなく、同じ目線で『友人として』の会話)気づくことすらなく、たった一人でひたすら世の流れに抗い続けてきた魔女。

また彼女は最初から自分が『異端』であることを理解している。コートにある黄十字は『異端』の印で、ただの飾りではない。アニメでは「異端の癖に人に関わろうとするから、のけ者にされるんだ」とエゼキエルに責められるが、原作ではそんなそぶりはまず無いし、(街に出れば火炙りにされることもあるが)戦場以外で彼女は人前に滅多に出ない。そもそも人間と関わること事態を由としていない。人間と一定の距離を置き、住処の森を霧で隠し普段は籠もっている。人間達も敬して遠ざけ、あるいは『魔女』として気味悪がる。


↑人と関わると嫌でも人間の愚かさを目の当たりにしてしまう。だから籠もる。しかし知ってしまうと、『行動しない』という選択のない魔女


ゆえに『人間』をよく理解も出来ず、そのくせ人間達に『愚かさを教えてあげるから、幸せになって欲しい』と願う彼女は、ただただ傲慢で孤高であり尊くもあり、だから「目先の不快感に流され、魔力を振り回すだけじゃアカンよ」と、天の教会の『お説教』を受けるハメにもなるのだけれど。


↑『適切な距離を保っていたからこそ』、森の近在の街や村の人々はマリアに感謝こそすれ恨むことはなかった。教会も忌々しく思いながらも彼女の行為には手を出さず、領主に至っては戦場くずしの依頼を送っていた。『異端は触れるも汚らわしいもの』故、誰もマリアをおおっぴらに利用しようとは思っていなかったようだ


『見返りを求めない愛』だから、彼女は人々に愛され、『誰にも顧みられない』からこそ、魔女と言うことで火刑に処せられる。

方法は間違っていたけれど、人の幸せを願い続けた彼女は、もうとっくの昔に『覚悟完了』していた訳で。でも、ジョセフの好意に最後まで気づかなかった天然でもあり。


そもそも『正しい』か『間違い』か、『善』か『悪』かなんて、立場と考え方が違えば変わってくるものだし、気に入らないものの排除は、世界を二つにしか分けられなくなって、結局、戦いの終わらない世界にしかならない。

「『純潔のマリア』と言うお話は、そのものすごく微妙なラインをたどりながら、マリアが自分の理想とする世界を築く為にわが道を進むお話でもあり、その中で様々な物に触れ、頑なだった心が愛の本質を知り『愚かで愛すべきこの世界の一葉として』折り合いをつける物語」なのだから、余計に慎重になって欲しいなと考えてはいた。

この複雑なマリアの人物像、アニメで描けなかったとは思えない。特に人間描写に定評のある谷口悟郎だからこそ、期待していた…のに。


■『そのストーリー』のための矮小化、幼稚化、弱体化

アニメは話が進んでいくごとに、マリアの精神年齢が幼くなってる事に、本当に戸惑った。フランスもイングランドも関係ないと言いつつ領主ル・メ伯の駒になり、ローマ教会など関係ないと言いつつ、村人に排除されたことを悲しみ…。

アニメマリアは、なんでこんなに人の目線を気にしてるんだろう。人々に受け入れてもらおうと躍起になるのだろう。


↑マリアが自らの力を『魔力』ではなく『神通力』と称する場面もあるように、魔女達と天の教会は元はひとつの存在だった。魔女達がなぜそうなったのか、その由来が語られることは無かった…『exhibition』でのエドウィナの使い魔の話でも推測するが、たぶん、魔女達は忘れてしまったのかもしれない。もちろん、食べていくために戦場くずしの依頼を受けるのだが、イコール領主のコマに成り果てることではない。それはマリア以外の魔女も例外ではない。


魔力もずいぶん弱体化された。黒死病から村を救うのに指一本立てるだけ。森の周囲に『よい風』を送り、人々を黒死病から守っていたこともなく、ただ戦場に来てひっかき回す『だけ』。

まあ、うすうすは理解していた。『これは、オリジナル展開を進めるにつき、『人間』が付け込める隙を作るためなんだな」と。

事実、8話の時点で、ベルナールの勢力がマリアの領域に踏み込み、さらにガルファにマリアの純潔を奪えと言う話になっているが。この展開に説得性を持たせるため、ベルナールやガルファがマリアと同等に動けるように幼稚化・弱体化されたのかと推測。

確かに、今のマリアなら『そういう状況』に追い込まれても「危ない」と共感してもらえる。『迷いを抱えたか弱い女の子』になったのも、簡単に共感を得られるからだ。


↑無実の少女を魔女として陥れた司祭が、マリアの怒りにふれ怪物化されたシーン。まあ、こんな話持ってきたら、アニメオリキャラのベルナールもガルファも太刀打ちできんよなあ…


そこへ至る道筋も実に巧みに選択、省かれている。

例えば、アニメ4話。名代としてエゼキエルが降臨、「ポッポちゃんには何も出来ない」とマリアに煽られた後のエピソード。エゼキエルが地上の人々に、神の愛を説こうとするシーンとか。

↑天の教会の者であろうと、言葉だけでは誰の心をも動かすことは出来ない。…んだが、この後の展開はエゼキエルが『エゼキエル』である由縁のもの


マリアがフランス・イングランドの思惑の外に存在し、いかなる権力にも左右されない信念の一端を垣間見るシーンとか

↑アニメでは採用されなかった「イングランド側の依頼を受けたマリアが、虐殺戦を仕掛けようとするフランス軍から非戦闘民を守るシーン」。ここでフランス兵が尋ねた『汝はどちらの味方なりや』は、アニメではフランスだけ勝利させたいル・メ伯がマリアに問う台詞として使われている。


最も「あれ、ここスルー? これだと『肝』が無いんじゃ…」と思ったのが、件の廃村のエピソード。黒死病から救おうと薬を持ってきたマリアを拒絶し、信仰に殉じた人々への想いが、マリアを『人助け』に駆り立てた。この展開はアニメとほぼ同じ。正直、エゼキエルとマリアがここでちゃんと話し合うとばかり思っていたが、プリアポスといい感じで終わってしまって「あれえ…」と。このくだりが無いと、マリアが『マリア』として存在できなくなると思うのに…と。


↑疫病で滅んだ村での、エゼキエルとマリアの会話。マリアは自分の行いは無駄な抵抗だと理解し、それでも人助けを辞めないと話す。そして、ここでマリアのとった『行動』にエゼキエルは驚天動地し、マリアに傾倒していく。原作ではとても重要なシーン。アニメではなぜか描かれなかったけど。


こうして読み返すと、アニメ製作側は実に原作を読み込んでいるかが分かる。読み込み、理解した上で、重要な『芯』を抜き取り、アニメ版ストーリーに差し替えているのだろう。それは本来は喜ばしいことではある、あるのだが、「どうしてそうなった」が先になってもにょってしまう訳で…。


■妙な部分が『ゆるい』

アニメマリアは孤独に追いやられているようで、妙な友達感覚が残っているのも、ちょっと変だと思う点。使い魔やエゼキエルはいいとしても、自分達の稼ぎ場を荒らされ、飢え死にしそうな魔女もいるのに、なぜフランスの魔女達はマリアを許しているのか分からない。そういえばビブも『組合』とやらにつるんでるの、ガラでもないなってちょっと思った…(笑)


↑戦場そのものを吹き飛ばすマリアに、助けるものはいない。手を差し伸べたのがビブであり、押しかけられて困ったのはエドウィナ。彼女達には因縁があって、それは番外編で語られるところ



使い魔たちがマリアを殺しかけたエゼキエルを許せる点も分からない。主人をあんな目に遭わせた存在に対して怒りが無いとは言わせない。しかも、仕留め損ね回復したマリアを、未だ『放置』する天界は何なのか。エゼキエルが傍についているからで済ませていいのだろうか。つまり「これから僕の考えた人間ドラマが始まるから、それにつきあってね」ってことだろうか。それにしても、間延びしすぎやしないだろうか。


↑負傷したマリアの下へ戻ったエゼキエルを、刺殺しようとするプリアポスとそれを止めるアルテミス。そういえばアニメ版のキャラデザインにショートソードが無かったから、このシーンどうするんだろうと思ってたら、そうか、削ったのか…


全体を覆うこの『なまぬるい友達感覚』は、観るものをほっとはさせるだろう。しかし、真の孤独を描くことは無い。それは、マリアがいかにぎりぎりの淵に立ち、自らの理想に殉じているかの緊張感に欠けるし、天の教会の有り様に締りがなくなってしまうのだ。原作由来のキャラが本来持っていた『プロフェッショナル』としての気骨が、まるっと抜けている。だから、ゆるいと思ってしまうのだろうか。



■『マリアに責任を押し付ける』流れに、ドラマ内キャラだけでなく製作側も乗っている?

原作版の『芯』を抜き取り、アニメストーリーの都合良いエピソードに挿し変わっていることは、それでも理解できる。なのに何故か『時代考証は念入りなのに、話つくりの細部が妙に雑だな』と思ってしまうことがたびたびあった。

それは(上記にも挙げたが)主に天の協会側の描写に多くあった。マリアに枷をつけ、抗い続ける魔女を最終的に『天へ還す』その存在の言葉と行動が妙に一致してないんじゃ…と首を傾げるしかなかった。




「天の教会は地上に関与せず」なら、ミカエルはなぜ人々の前に姿を見せたのか(原作ではマリアの召還した魔獣の放つ光をより強くし、人々の目から自分の姿を隠した)。

ミカエルの槍が発動するタイミングも、人々の前で魔法を使うその前、人々が気づく前に打ち落とすのがセオリーじゃないのか(一度目はマリアの魔法発動と同タイミング、原作ではマリアが魔法を使う直前。しかし戦場の人々はマリアに気づくことはなかった)。

エゼキエルは、迷うマリアになぜアンの依頼を話したのか。教えたらマリアは行ってしまうのに。マリアは自分の言い分など、耳を貸さないと予測できたのに(原作では、殺したくない一心でマリアへの矢文を全部焼き捨て、それが発覚してマリアの逆鱗に触れた)。

『マリアが処女を失うと魔力も無くす』が司祭に漏れたのもエゼキエルだ。得体の知れないガルファに、神の裁定をベラベラ喋るなんてあまりにも迂闊すぎないか?

最たるものが、7話で『エゼキエルがマリアの許諾なく、薬をアンに渡した』シーン。これを口実にベルナール達がマーサ達を取り込んだとしたら、天の教会が地上の理に間接的に関わってないか? エゼキエルの過失をも、マリアの責任に被せるつもりだとしたら、製作手側はキャラクターに対して『誠実』ではないのでは? と疑問を禁じなかった。


↑原作でもエゼがアンに薬を渡す場面はあるが、ちゃんとマリアから依頼されたもの


天の教会が中途半端な仕事しかせず、マリアの落ち度を『待って』彼女が起因の現状を生み出し『反論の余地を奪い』、すべての状況の責任をマリアへ転嫁する、そんなストーリーに仕立てているのは、ちょっと無責任すぎやしないか。

これと似た感想を持ったのが『エヴァQ』。シンジを追い詰めるため、ミサト達がなぜか真実を話すタイミングが『合わない』。ここに製作側の意図が見え透いて萎えたことを思い出すのだ。


↑ミカエルとエゼキエルのワンシーン。槍を振るう時のミカエルは冷酷であり、エゼキエルの気持ちなど一切考慮しない。しかし一方で迷えるエゼキエルに言葉をかけ、エゼキエルもミカエルに言葉を求める。アニメ版ミカエルのような「槍は考えなくてもよい」と言う間抜けな言葉は吐かない



■その『面白さ』は、何を土台としたものか

ストーリーも、キャラ紹介の時点で「教会側の人間と戦争に携わる人間が結託し、マリアの対立側につくだろう」「マリアの秘密を巡り、強姦を画策するシーンもあるだろう」と思っていし、概ねその通りになった。

つか、「オリジナル展開になる」「『地上の教会の人間』と『傭兵』」原作の『純潔を失ったら魔力も失う』ことを知った人間側が利用しないわけないじゃん! 美味しすぎるネタじゃん! でもこんなベタなギミックに引っかからないよね!…って思った時期がありr

ならこの先「司祭に離反する存在も現れるだろうし、傭兵の気骨は司祭の思い通りに動くことを良しとしないだろう」とも思えるし、「まだエドウィナの使い魔が人間の姿で登場していない、ということは、どこかで最後のキーポイントとして登場するだろう」とも考えられる。



↑エドウィナの猫ちゃんサキュバス。名前はまだ無い。すごく可愛くてすごく優秀。アニメではあれかなあ…となんとなく。なんとなーーく憶測


オリジナルキャラはとても魅力的だ。ガルファのような野心的な傭兵、ベルナールのような政治家的立ち回りをする司祭は、華を添えて引き締めてくれる。実際、彼らの織り成すドラマは深くて苦い重みを与えてくれる。でも、その面白さは原作を地盤沈下させた舞台でしか、発揮できなかったのだろうか。

そんなことは無かっただろう。彼らほど強力な毒を持ったキャラなら、原作のポテンシャルを持ったままのマリアでも対峙できたはずだ。教会もただの『マリアから観ての悪』ではなく、それこそ『教会内部にも親マリア派が存在、天の教会が介在するなら、人の手で触れてはならないと考え、ベルナールと対立する』とかすれば、もっとダイナミックなドラマになったかもしれない…ああでも、1クールでまとめるのはちと難しいか…。

もちろん、谷口悟郎だから残り4話も堅実かつ手際の良い『見せ方』で、クライマックスへの期待は充分肯定できる。ただ「すごくうまいのよ、でも、純潔のマリアでは、こういう形でのオリジナル化はやって欲しくなかったね」としか言えなくてつらいのだ。


中世考証もすごくいいと思った、最初のうちは。本当に頑張ってると思う。だけど、今では考証がストーリーよりも前に出すぎて分離気味。「私、別に歴史のお勉強の為に観てるんじゃないけど…」と思う時もある。申し訳ないが、『時代考証をやりましたーアピール』ばかり前に出てる気がして、肝心の『純潔のマリア』と言うお話にいまひとつ馴染んでない気がする。

重厚な内容に、かわいい絵柄が馴染んでないというのも大きいかもしれない。あの手の絵柄は、『サマーウォーズ』レベルで常に動き続けないと間が持たないのだ。しかし作画のレベルにばらつきがあり、維持していくのは難しいかもしれない。かわいいマリアのアップばかりでは、お話は構成できないのだ。


↑そういえば、アニメの戦場はいつも平野だな…。時代考証も大切だけど、やはり『石川雅之の描いた100年戦争の一コマ一コマ』をアニメできちんと再現し、その中を飛び回るマリアを観てみたかったと、心から思ってしまうのだよ。っていうか、アニメの製作側が『原作の絵を動かす腹づもり』あってアニメ化したんだと思ってたんだけどね。全てとは言わないまでも



『蟲師』とまでは行かなくても(あれこそ神の所業)、『進撃の巨人』『ジョジョ』等、原作をしっかり再現したアニメもある。オリジナル展開を加えたとしても『蒼き鋼のアルペジオ』や『シドニアの騎士』のような、キャラクターを原作のイメージほぼ再現し、原作とアニメがきちんと両立できる作品もある。

ましてや『純潔のマリア』はすでに完結。だから、これらの作品と同レベルで楽しめると思ってました。しかしここに来てそれは望むべくも無いと分かった今、ここに吐き出してしまおうと思った次第。

アニメはもちろん、アニメとして手堅くまとめられ、一定の評価を経て成功と呼べるものになるでしょう。原作を手にしてもらう機会が増えたことは、ファンとしても大いに喜ぶべきものであり、なんら文句のつけるところではありません。







繰り返しますが、この感想や考え方は、あくまで私個人のものです。アニメ版を面白いと思う人を否定するものではありません。単に吐き出して楽になりたいがための、ただの愚痴です。「今のこのアニメ化を適当に『まあ、アニメはアニメ、漫画は漫画』と大人の顔して割り切ってぬるく誉め、後で原作を心から大切にした再アニメ化があった場合『やっぱりこういうのが観たかったんだ』とテノヒラクルーになるのはかっこわりい」と思って、一応予防線張っただけです。

この先どんな展開になるかは、分かりません。地上の教会、地上の人々、天の教会との決着を経て、あのラストに至るのか至らないのか。とりあえず、最後まで観るつもりではいます。




この、エゼキエルの「一人の女の子として、何を望むのか」に対するマリアの返答。この悲壮な覚悟のマリア、アニメで観たかったなあ。この後ミカエルの槍に貫かれて、地上で傭兵にボコボコにされるけど。


3.8追記:『純潔のマリア』第9話「一つまみの塩を(CUM GRANO SALIS)」は実況のみチェックしましたが、ベルナールが自己崩壊を起こしたもようですな。しかし正直レイプ展開はそれが未遂であっても胸糞案件でした。強烈な印象を残すには手っ取り早いものでしょうが、原作ファンとしては一番やって欲しくないものでしたからね。ゴロー吊られやがってバーカバーカ、そんなに自分好みの展開にしたいならオリジナルでやれ! ってのが率直な意見です。








| comments(16) | trackbacks(0) | by LINTS
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コメント
こんばんは。
純潔のマリア アニメを見てから原作読みましたがあれ?ぜんぜん違うと思って検索していて本文読ませていただきました。

うーん、どうなんでしょうね?アニメ1クールで原作終了していて、まして全3巻。原作準拠でよかったと思いますが・・・
原作読んでいいと思ってアニメ化にするのではないのですかね?
| 桃缶 | 2015/03/07 1:08 AM |
桃缶さん>
コメントありがとうございます。私も原作準拠で充分面白かったと思います。オリジナルを入れるにしても、あんなに変える必要はなかったのでは…と。

確かに、いいと思ったからアニメ化になったのですが、「いい」の方向性がズレまくったというか…。

谷口悟郎と言う人は『純潔のマリア』を借りて自分の思想を語りたかっただけのようですね。残念。
| LINTS | 2015/03/07 5:34 AM |
感想拝読いたしました。あなたはアニメ版のマリアに似すぎているのかもしれないですね。同属嫌悪的な?
あ、悪口じゃないです。
似てるなーっていう。それだけの感想です。
| のん | 2015/03/13 11:57 AM |
のんさん>
似てるかどうかは分かりませんが、
『かわいい』方面へ改変された理由を推測してもやっとするなー、
と。そういうお話です。妄想ですみません。
| LINTS@管理人 | 2015/03/13 5:36 PM |
 ブログを拝見させていただいて、気になった点がいくつかあったのでコメントさせてもらいました。ちなみに私は原作ファンであり、アニメの方も毎週楽しく見ている者です。


 まず、アニメ版では人間に付け入る隙を与えるために魔力が弱くなっていると書いていますが、原作でもエゼキエル(槍)に貫かれた後、兵士にレイプされそうになっていますよね。つまりどんなに強力な魔法があってもそれを使えるだけの肉体と精神が無いと意味が無いわけですからアニメ版でマリアを強力な薬で弱らせて捕えようと考えるのに魔力の強さは関係ないと思われます。そもそも一般市民にとってはドラゴンやら悪魔を召喚できるというだけで十分すぎるくらい脅威ですし、第一、殺そうと思ったら騙し討ち等、やりようはいくらでもあるので関係ないと思われます。ではなぜアニメ版では黒死病を魔法ではなく薬で解決した設定にしたのかというと、おそらく魔女は薬作りに非常に長けており、とても強力で効果のある薬を作ることができるという説明と後々の伏線のためであると思われます。
 あとレイプ展開は胸糞と書いてますが、原作でエゼキエルとクロードの件を含めると3回も出てきますよね。しかもアニメ版と違って完全に性欲によるレイプ未遂ですけど胸糞にならないんですか? キャラクターの意志が無いぶんアニメ版よりよっぽど作者の都合に思えますけど。

 他にはアニメ版はミカエルが地上に干渉していると書いてますが、原作でもミカエルは村人には姿を見せてませんがジョセフとアンには姿を見せ会話もしていますよね。これって十分干渉してると思うんですけどどうお考えでしょうか? ジョセフとアンは特別だからノーカンという理屈なのでしょうか? それとも少人数だから干渉したことにはならないということでしょうか? またはそれにより何かが大きく変化することがなかったという結果論からでしょうか?
 次に、エゼキエルが薬を勝手に渡した(アンやマーサのことを思っての行動であるが)ことやガルファに秘密を喋ったことはあまりに迂闊すぎると書いてますが、原作ではアンにおそらく力を使って花を渡してますよね(自分の意思で)。他にもまだマリア達に感化されていない前半でマリアの口車に乗せられて兵士達に説法(地上に干渉)しようとしています。矢文も力を使ってどうにかすればいいのにわざわざ燃やしてます。そもそも見えてないから魔法を使うことを許容してしまうような超迂闊キャラじゃないんですか? しかも、アニメ版ではガルファがジョセフの友達であることを知っていますし、家事の手伝いや薬作りの場に居合わせているという油断要素もきちんと描いています。それなのにアニメオリジナルシーンだけ迂闊すぎる、チグハグだという根拠がいまいち分かりません。どう考えてもあなたのさじ加減にしか見えませんでした。

(続く)
| 海月 | 2015/03/16 11:02 PM |
 また、アニメ版はストーリーやキャラ描写が雑で、作者の思惑が見え透いているようだと書いていますが、例えばエゼキエルの迂闊な行動の責任までマリアが負うことになっているという部分は、一見するとそのように見えますが、実のところマリアの選択によって歯車ずれ、バタフライ効果のようにまわりまわって災難がマリア自身に降りかかってくるといった緻密に練られたストーリーだと感じます。分かりやすく説明するとマリアがあそこで戦争に行かなければマーサの異変にすぐ駆けつけられ教会を呼ばれることも無く、敵に隙をつかれ攻め込まれガルファが腕を無くし恨むこともなく、市民がマリアに不信感を募らせることもなく、フランス軍が大勝利し戦争は終結に向かい(予定)、ジョセフと一緒になり幸せになることができました。しかし、これはミカエルの「己の幸福と世界の幸福を天秤で計れ」という言葉への答えになるわけですが、マリアは自分の信念を貫き「世界の幸福」を選択したことによって運命が変化し「マリアの幸福」が失われ、不幸が降りかかるというストーリーになっているわけです。そして、自分の信念を貫いた結果出現した大きな壁にマリアはどう立ち向かい、答えを出すのかというのがこれからの話ですね。
 そもそも粗さで言ったらどう考えても原作の方が粗いですよね。今まで見つからなかったエドウィナの家がなぜか見つかり、しかも複数の魔女が確認されてるのに(魔女1人でも容易に襲撃しないくらい大きな力を持っているのに)なぜか乗り込み、乗り込んだ時には偶然マリア以外のキャラは出払っていて、しかもマリアは怪我をしていたため(ショックにより抵抗する気も起きなかったからかもしれないが)取り押さえることができ、誰かが戻ってくる前に連れていくことができたっていうストーリーはどうみても雑でご都合主義です。でも、そういうところが大事な作品ではないことを理解したからこそ私は原作を最後まで楽しく読むことができたと思っています。しかし、あなたがそういうところを気にする人なのであれば、なぜ原作をここまで愛せているのか謎で仕方ありません。あなたは原作を自分に都合良く解釈しすぎなのではないでしょうか?


 他にも思うところは多々ありますが、今回このブログを読んで、あなたはアニメはアニメ、原作は原作と考え冷静に分析し、評価しているつもりでしょうが、実のところそんなことはなく、いわゆるただ原作と違うというだけで他メディア化作品を叩く原作至上主義者と同じことを言っているように見えました。原作(神)を都合良く解釈し、それを肥大、高尚化させ狂信し、それを汚すイミテーション(異端)を否定するため、無意識に己の感情に理屈をこじつけることで原作(神)肯定をする自己を肯定している、さながらアニメ版に登場するベルナールのようだなと感じました。

 最後に、あなたがブログに書いてあるのと同じで、私もあなたの考えを否定することはできませんが、あなたがアニメ版を見て感じ、ブログに書いたように私も、あなたやあなたの意見に対して多くの相違があることでしょうが、あなたのブログを読んで感じたことを書かせていただきました。宗教や価値観の違いを描いている本作でこのように、自分と違いある種、神のように原作を信じている人の意見を細かく拝見させていただいたことはとても有意義なものになりました。また、マリアが作中で行おうとしていることの難しさというものを改めて感じることができました。
 多くの失礼と長文失礼いたしました。
| 海月 | 2015/03/16 11:03 PM |
数々の質問、ありがとうございます。

ミカエルが姿を見せた件は、『数の規模』によるものだと考えます。
狭く深く物語を掘り下げる原作は「ストーリーに深く絡む人間のみ」、
領地全体を舞台としたアニメでは、『噂』という形でミカエルとマリアの存在を教会に伝えたい意図があったものと推測します。

エゼキエルの薬の件は、
原作ではそもそも『薬』が直接絡むエピソードは存在しません。
アンへ花を渡す=エゼキエルが地上の人間への干渉を是とし始める予兆として描き、
それによりミカエルの警告を受けるための展開のスタートだと考えます。
これは、より広域へ拡散するものではありません。
あくまで『エゼキエル−ミカエル』内で閉じたエピソードだから、特に問題視していません。

アニメでは『薬を渡した』アクションが、
マーサの病状悪化に繋がる可能性を示すものであったと考えます。
それは教会に口実を与える結果となったから
エゼキエルの行動に疑問を抱いたわけです。

その行動が『外に拡散する』か『内に閉じる』か。その差だと考えています。
それが『介入しないを公言とする天の教会』と矛盾してないかなと、思った次第です。

レイプに関しては、8話をかけて『その状況を正しい』と思わせる展開の張り方が巧いと思うと同時に嫌だなと。

変な話ですが、誉めています。さすが谷口さんだ、うまいなと。
そしてそれらのベクトルは、海月さんの指摘にある通り『すべてはマリアの迂闊さが原因』と思わせる、巧みな伏線張りだと考えています。

ただ、そのストーリーの組み立て方に全てを委ねたくないなーと、考えている訳です。


原作を都合よく愛しすぎている。


確かにその通りです。私は、原作の『純潔のマリア』が大好きです。
語られない部分もひっくるめて、想像のできる余地が好きなのです。
原理主義という批判も、その通りだと思います。

もし、最初にアニメを観たらきっとアニメのマリアのファンになり、
原作を読んでがっかりしたかもしれません。
そういう意味では、残念な視聴者でもあります。

私は海月さんのように、分けて考えることはできません。
海月さんが「原作で説明不足な部分を、アニメで補完してくれた」を、
私は「谷口解釈で説明多寡だ」と考えている。捉え方が違うのですね。

私がアニメに対する疑念は
「この物語を、なぜ、マリアの性格を歪めて描いたのか」という点と、
「オリジナルストーリーのしわ寄せが、天の教会の動きにきてるのではないか」という点に集約されており、
「アニメオリジナルの存在が、原作由来の物語やキャラに負荷をかけているのではないか」につきます。

そもそも、なぜマリアの行動が『迂闊』でなければならないのか。
なぜ『感情的に動かなければならないのか』。

マリアを感情的に動かしたいとすれば、何を目的にしているのか、本当にそれは綿密なのだろうか。

『価値観を押し付けないで』からスタートした私の疑念なので、そういう点がみえるのかもしれません。

そして、ブログの最初に書いてあるように、私の見解の全て正しいというつもりは毛頭ありません。穴だらけである点も承知しています。

私は原作が大好きです。それで見えない部分があるというのなら、申し訳ありませんが「そのとおりだ」としかお答えできません。

ここは私の個人ブログであり、私個人の思うところをしたためる場である点はご容赦ください。
| LINTS@管理人 | 2015/03/16 11:42 PM |
はじめまして!
マリアのネタバレ検索してたどり着きました。コメント含めて、読みごたえがあり、予期せず楽しんでしまいました。
アニメ終わった際の感想も是非読みたいなーと思ったので、時間があったらお願いしたいです。
本当に作品がお好きなんだなーと思いました。
アニメを流し見するのが好きで、原作の絵は少し苦手だったんですが、このアニメに見入ることが多く、この記事を読んで原作も読んでみたいと思いました。
| no | 2015/03/18 12:07 AM |
コメントありがとうございます。ただの愚痴なのに、逆に楽しんでいただいて申し訳ない気がします(^^;

アニメは全話観るつもりです。谷口版マリアがどのような着地をするか見届けて、改めてまとめたいと思います。

原作は、確かに絵で敬遠される方が多いのですが、マリア達はのびのびしています。是非ご一読を
| LINTS@管理人 | 2015/03/18 9:14 AM |
お邪魔します。

純潔のマリアのアニメを観ていて(原作既読)、何かすごくもやもやするのにソレが何かわからず、わからないことに更にもやもやしているときにコチラに流れ着きまして、ようやく何にもやもやしていたのかがわかりました…ので、「ありがとう」と言わせていただきます。
これで、最終回の視聴にも耐えられそうです。

できればアニメで、突撃してくる騎兵隊を前に死を覚悟するジョセフ…からの一連の流れを観たかったなぁ

谷口監督の原作改変にはプラネテスで懲りていたのに、つい期待してしまった自分に反省です。
監督のオリジナル作品は面白くて大好きなんですけどね。
| GOE | 2015/03/23 11:03 PM |
GOEさん>
おお、もやもや同志よ!(笑)
読んでいただき、ありがとうございます。私もずいぶん悩まされましたが、盛大に吐き出してスッキリしました(笑)

谷口悟郎の、アニメ監督としての手腕を否定するものではないのですが、『原作もの』にはもう手を出して欲しくないというのが本音ですね。

これ以上もやもやを抱えるのはごめんですわ(笑)
| LINTS@管理人 | 2015/03/23 11:08 PM |
はじめまして。
私は原作は読んだことがないのですが、このブログを拝見して、
管理人様の文章や画像などを見て、確かにアニメのマリアとは
違うなあと感じました。

管理人様のおっしゃる通り、マリアが幼稚というか弱体化しているというか……。
原作ではもっと強く気高くかっこいい女性なのかなあと思いました(違ったらすみません)

アニメはアニメで楽しく観ていたのですが、原作のマリアのほうが
個人的には好みかもしれないです…。
あとプリアポすやアルテミスがエゼキエルを簡単に許したのも、ええ?と違和感がありました。

この機会に原作を読んでみたいと思います。

突然のコメント失礼しました!
| ゆき | 2015/03/24 2:08 AM |
海月さんの
「そもそも粗さで言ったらどう考えても原作の方が粗い 〜 ストーリーはどうみても雑でご都合主義です。」
の部分、そんなこと言い出したら世の物語の大半がご都合主義になっちゃいそう。
議論というより粗探しになっているってのは海月さんもじゃん!って気がしました。

LINTSさんの漫画への愛に対して海月さんはアニメに愛があるんだと見て取れるので、歩み寄れないまでも結果並び立てるといいですね!

私はもう漫画とは全くの別物として楽しむことにしました。でないと無理(笑)
| けい | 2015/03/24 3:24 AM |
ゆきさん>
原作マリアは「気高い」と言うより「のびのび」しています。でも「恋愛ごとに関しては全くの鈍感」です(笑)

使い魔たちも、ご主人様を心から愛しており、それゆえにエゼを許せない場面も出てきます。そんな彼らを解放したのは、マリアの愛情でもあるのです。

原作ポテンシャルのマリアで、縦横無尽に駆け回って欲しかったなーと、今でも思います。
| LINTS@管理人 | 2015/03/24 10:45 AM |
けいさん>
本分でも書いたとおり、立場が変われば『許せることと』『許せないこと』が別れるんですよね。

ただ、許せるからといって『心が広い』訳でもないし、許せないからといって、『狭量でかわいそう』だとも思いません。彼らには彼らの、譲れない一線があって、それがかち合ってるだけだと思うのです。

今回、たまたま私は「こちら側」に来ましたが、別の作品では立場が変わることもあるでしょう。それだけのお話なんです。
| LINTS@管理人 | 2015/03/24 10:50 AM |
「嫌な気持ちになるから読むな」って注意書きがあるのに
勝手に読んで勝手に文句言ってくるやつなんなの?

読ませる気のない長文改行無しのベタ打ちで
ぎゃあぎゃあ言いまくって、
「失礼しました」の一言で許されると思ってんの?

「人んちの庭の植えられた花が気に入らない」って理由で
『気に召さないなら入るな』って立て看板無視して
ずかずか入り込んで、文句言い立てるオバサンかよ。

ほんと、失礼にもほどがあるんじゃねえの?
| 通りすがり | 2015/05/24 9:00 AM |
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