もやもやの最大の原因は、面白いと評価される要素の中にある
『主人公マリアの弱体化、幼稚化されている』点と
『物語が主人公矮小化に伴う挫折や失敗を立脚点にし、展開している』点、
『マリアに全ての責任を押し付ける展開に、製作側も乗っている』点かなあ。
『話のシリアスさに絵柄が追いついていない』点もあるので、作画ほんとにがんばって欲しいところ。
特に「マリアに現実とやらと見せつけ、よってたかってわーわーお説教して否定しまくるストーリー」って、違うと思ってる。だって原作は、そういう展開とは間逆の物語だったから。
↑原作でもビブは確かにこうは言った。しかし「価値観の押し付け」といわないし、ましてや「所詮その程度のものだった」なんて高を括らない。ビブはもっと大きくて、熱くて、カッコイイ女だ
最初にひっかかったのは1話。
前の感想でも書いたとおり、アルテミスの「あなたの価値観を押し付けないで」と言う台詞。あの違和感はちょっと言葉にならなかった。「なんで他人事みたいなこと言ってるんだろう」と。
『純潔のマリア』はマリアの価値観どまんなかぶっちぎりなお話だから、押し付けもなにもあったもんじゃなく。そんなマリアを説教できたのは、それこそ天の教会だけだったから成立したストーリーであって。その台詞が世界観にそぐわないなと思ったこと。
また個人的に「価値観を押し付けるな」と言う言葉は『責める事で一方的にマリアを【悪者】【未熟者】として決め付け、マリアの落ち度を待っているようで卑怯じゃないのかな』と考えているので、使い魔としてマリアに従事するアルテミスが言うのはちょっとひどいと思った。
それでも「マンガとは展開が違っても『純潔のマリア』を選んだからには、その世界観に則したものになっていくのだろうな。まだ始まったばかりだし、もうちょっと待ってみよう」と思っていたが。
しかし4話でビブが「価値観の押し付けすぎ」を繰り返した点で、「アニメ版は『理想を貫きたいマリアを、周囲が寄ってたかってお説教する』物語になるのか」と確信。ある意味、一番手堅くもあり、一番やって欲しくなかったお話の作り方だなと思った次第。
↑原作ヴァルキリー達は忘れられた神々と言うより、越境スカウトしてきたおねえちゃんと言う感じ。『人間の営みとは別の流れに存在する』感じで、忘れられた神々という悲壮感はあまり無い。
もちろん、『純潔のマリア』にその構造を当てはめて再構成する点にあたり、異を唱えるものではなく、むしろ「全三巻+一巻と言う短い展開を12話にするには、オリジナル要素は必要だろう」と考え、歓迎してもいた。
話を作るうえで扱われる『成長物語』の型のひとつである、『理想が先走る主人公の稚拙さ、周囲との不協和音を描き、衝突と挫折を繰り返す中で社会性を学ぶ物語』を、私は否定しない。物語作りの定番だし、観るものの共感を一番得やすい展開にしやすい。
ただしこの方法は『主人公を無知無力とすることで、周囲を際立たせる』方法でもあり。そのことで主人公への責任や義務が集中、過度に背負わせるシステムでもあり。だからこそ、作り手が細心の注意を払ってバランスをとっていかなければならないのだけれど。
しかし、ここまでマリアと言うキャラクターが『矮小化及び幼稚化』するとは思いもせず。正直失望すらしている訳で…。
■原作版マリア
原作のマリアは『人に受け入れられたくて人助けをしてる』訳でも、『神になりたくて戦に介入』しているのでもない。イングランドの味方でもフランスの駒でもなく、自分の信念の味方であり、「ただ、人に幸あれ」を願い行動している。
その行動の根底には『深い孤独と愛への渇望』があり、それが余りに深すぎてビブに指摘されるまで(それだって上から目線のお説教ではなく、同じ目線で『友人として』の会話)気づくことすらなく、たった一人でひたすら世の流れに抗い続けてきた魔女。
また彼女は最初から自分が『異端』であることを理解している。コートにある黄十字は『異端』の印で、ただの飾りではない。アニメでは「異端の癖に人に関わろうとするから、のけ者にされるんだ」とエゼキエルに責められるが、原作ではそんなそぶりはまず無いし、(街に出れば火炙りにされることもあるが)戦場以外で彼女は人前に滅多に出ない。そもそも人間と関わること事態を由としていない。人間と一定の距離を置き、住処の森を霧で隠し普段は籠もっている。人間達も敬して遠ざけ、あるいは『魔女』として気味悪がる。
↑人と関わると嫌でも人間の愚かさを目の当たりにしてしまう。だから籠もる。しかし知ってしまうと、『行動しない』という選択のない魔女
ゆえに『人間』をよく理解も出来ず、そのくせ人間達に『愚かさを教えてあげるから、幸せになって欲しい』と願う彼女は、ただただ傲慢で孤高であり尊くもあり、だから「目先の不快感に流され、魔力を振り回すだけじゃアカンよ」と、天の教会の『お説教』を受けるハメにもなるのだけれど。
↑『適切な距離を保っていたからこそ』、森の近在の街や村の人々はマリアに感謝こそすれ恨むことはなかった。教会も忌々しく思いながらも彼女の行為には手を出さず、領主に至っては戦場くずしの依頼を送っていた。『異端は触れるも汚らわしいもの』故、誰もマリアをおおっぴらに利用しようとは思っていなかったようだ
『見返りを求めない愛』だから、彼女は人々に愛され、『誰にも顧みられない』からこそ、魔女と言うことで火刑に処せられる。
方法は間違っていたけれど、人の幸せを願い続けた彼女は、もうとっくの昔に『覚悟完了』していた訳で。でも、ジョセフの好意に最後まで気づかなかった天然でもあり。
そもそも『正しい』か『間違い』か、『善』か『悪』かなんて、立場と考え方が違えば変わってくるものだし、気に入らないものの排除は、世界を二つにしか分けられなくなって、結局、戦いの終わらない世界にしかならない。
「『純潔のマリア』と言うお話は、そのものすごく微妙なラインをたどりながら、マリアが自分の理想とする世界を築く為にわが道を進むお話でもあり、その中で様々な物に触れ、頑なだった心が愛の本質を知り『愚かで愛すべきこの世界の一葉として』折り合いをつける物語」なのだから、余計に慎重になって欲しいなと考えてはいた。
この複雑なマリアの人物像、アニメで描けなかったとは思えない。特に人間描写に定評のある谷口悟郎だからこそ、期待していた…のに。
■『そのストーリー』のための矮小化、幼稚化、弱体化
アニメは話が進んでいくごとに、マリアの精神年齢が幼くなってる事に、本当に戸惑った。フランスもイングランドも関係ないと言いつつ領主ル・メ伯の駒になり、ローマ教会など関係ないと言いつつ、村人に排除されたことを悲しみ…。
アニメマリアは、なんでこんなに人の目線を気にしてるんだろう。人々に受け入れてもらおうと躍起になるのだろう。
↑マリアが自らの力を『魔力』ではなく『神通力』と称する場面もあるように、魔女達と天の教会は元はひとつの存在だった。魔女達がなぜそうなったのか、その由来が語られることは無かった…『exhibition』でのエドウィナの使い魔の話でも推測するが、たぶん、魔女達は忘れてしまったのかもしれない。もちろん、食べていくために戦場くずしの依頼を受けるのだが、イコール領主のコマに成り果てることではない。それはマリア以外の魔女も例外ではない。
魔力もずいぶん弱体化された。黒死病から村を救うのに指一本立てるだけ。森の周囲に『よい風』を送り、人々を黒死病から守っていたこともなく、ただ戦場に来てひっかき回す『だけ』。
まあ、うすうすは理解していた。『これは、オリジナル展開を進めるにつき、『人間』が付け込める隙を作るためなんだな」と。
事実、8話の時点で、ベルナールの勢力がマリアの領域に踏み込み、さらにガルファにマリアの純潔を奪えと言う話になっているが。この展開に説得性を持たせるため、ベルナールやガルファがマリアと同等に動けるように幼稚化・弱体化されたのかと推測。
確かに、今のマリアなら『そういう状況』に追い込まれても「危ない」と共感してもらえる。『迷いを抱えたか弱い女の子』になったのも、簡単に共感を得られるからだ。
↑無実の少女を魔女として陥れた司祭が、マリアの怒りにふれ怪物化されたシーン。まあ、こんな話持ってきたら、アニメオリキャラのベルナールもガルファも太刀打ちできんよなあ…
そこへ至る道筋も実に巧みに選択、省かれている。
例えば、アニメ4話。名代としてエゼキエルが降臨、「ポッポちゃんには何も出来ない」とマリアに煽られた後のエピソード。エゼキエルが地上の人々に、神の愛を説こうとするシーンとか。
↑天の教会の者であろうと、言葉だけでは誰の心をも動かすことは出来ない。…んだが、この後の展開はエゼキエルが『エゼキエル』である由縁のもの
マリアがフランス・イングランドの思惑の外に存在し、いかなる権力にも左右されない信念の一端を垣間見るシーンとか
↑アニメでは採用されなかった「イングランド側の依頼を受けたマリアが、虐殺戦を仕掛けようとするフランス軍から非戦闘民を守るシーン」。ここでフランス兵が尋ねた『汝はどちらの味方なりや』は、アニメではフランスだけ勝利させたいル・メ伯がマリアに問う台詞として使われている。
最も「あれ、ここスルー? これだと『肝』が無いんじゃ…」と思ったのが、件の廃村のエピソード。黒死病から救おうと薬を持ってきたマリアを拒絶し、信仰に殉じた人々への想いが、マリアを『人助け』に駆り立てた。この展開はアニメとほぼ同じ。正直、エゼキエルとマリアがここでちゃんと話し合うとばかり思っていたが、プリアポスといい感じで終わってしまって「あれえ…」と。このくだりが無いと、マリアが『マリア』として存在できなくなると思うのに…と。
↑疫病で滅んだ村での、エゼキエルとマリアの会話。マリアは自分の行いは無駄な抵抗だと理解し、それでも人助けを辞めないと話す。そして、ここでマリアのとった『行動』にエゼキエルは驚天動地し、マリアに傾倒していく。原作ではとても重要なシーン。アニメではなぜか描かれなかったけど。
こうして読み返すと、アニメ製作側は実に原作を読み込んでいるかが分かる。読み込み、理解した上で、重要な『芯』を抜き取り、アニメ版ストーリーに差し替えているのだろう。それは本来は喜ばしいことではある、あるのだが、「どうしてそうなった」が先になってもにょってしまう訳で…。
■妙な部分が『ゆるい』
アニメマリアは孤独に追いやられているようで、妙な友達感覚が残っているのも、ちょっと変だと思う点。使い魔やエゼキエルはいいとしても、自分達の稼ぎ場を荒らされ、飢え死にしそうな魔女もいるのに、なぜフランスの魔女達はマリアを許しているのか分からない。そういえばビブも『組合』とやらにつるんでるの、ガラでもないなってちょっと思った…(笑)
↑戦場そのものを吹き飛ばすマリアに、助けるものはいない。手を差し伸べたのがビブであり、押しかけられて困ったのはエドウィナ。彼女達には因縁があって、それは番外編で語られるところ
使い魔たちがマリアを殺しかけたエゼキエルを許せる点も分からない。主人をあんな目に遭わせた存在に対して怒りが無いとは言わせない。しかも、仕留め損ね回復したマリアを、未だ『放置』する天界は何なのか。エゼキエルが傍についているからで済ませていいのだろうか。つまり「これから僕の考えた人間ドラマが始まるから、それにつきあってね」ってことだろうか。それにしても、間延びしすぎやしないだろうか。
↑負傷したマリアの下へ戻ったエゼキエルを、刺殺しようとするプリアポスとそれを止めるアルテミス。そういえばアニメ版のキャラデザインにショートソードが無かったから、このシーンどうするんだろうと思ってたら、そうか、削ったのか…
全体を覆うこの『なまぬるい友達感覚』は、観るものをほっとはさせるだろう。しかし、真の孤独を描くことは無い。それは、マリアがいかにぎりぎりの淵に立ち、自らの理想に殉じているかの緊張感に欠けるし、天の教会の有り様に締りがなくなってしまうのだ。原作由来のキャラが本来持っていた『プロフェッショナル』としての気骨が、まるっと抜けている。だから、ゆるいと思ってしまうのだろうか。
■『マリアに責任を押し付ける』流れに、ドラマ内キャラだけでなく製作側も乗っている?
原作版の『芯』を抜き取り、アニメストーリーの都合良いエピソードに挿し変わっていることは、それでも理解できる。なのに何故か『時代考証は念入りなのに、話つくりの細部が妙に雑だな』と思ってしまうことがたびたびあった。
それは(上記にも挙げたが)主に天の協会側の描写に多くあった。マリアに枷をつけ、抗い続ける魔女を最終的に『天へ還す』その存在の言葉と行動が妙に一致してないんじゃ…と首を傾げるしかなかった。
「天の教会は地上に関与せず」なら、ミカエルはなぜ人々の前に姿を見せたのか(原作ではマリアの召還した魔獣の放つ光をより強くし、人々の目から自分の姿を隠した)。
ミカエルの槍が発動するタイミングも、人々の前で魔法を使うその前、人々が気づく前に打ち落とすのがセオリーじゃないのか(一度目はマリアの魔法発動と同タイミング、原作ではマリアが魔法を使う直前。しかし戦場の人々はマリアに気づくことはなかった)。
エゼキエルは、迷うマリアになぜアンの依頼を話したのか。教えたらマリアは行ってしまうのに。マリアは自分の言い分など、耳を貸さないと予測できたのに(原作では、殺したくない一心でマリアへの矢文を全部焼き捨て、それが発覚してマリアの逆鱗に触れた)。
『マリアが処女を失うと魔力も無くす』が司祭に漏れたのもエゼキエルだ。得体の知れないガルファに、神の裁定をベラベラ喋るなんてあまりにも迂闊すぎないか?
最たるものが、7話で『エゼキエルがマリアの許諾なく、薬をアンに渡した』シーン。これを口実にベルナール達がマーサ達を取り込んだとしたら、天の教会が地上の理に間接的に関わってないか? エゼキエルの過失をも、マリアの責任に被せるつもりだとしたら、製作手側はキャラクターに対して『誠実』ではないのでは? と疑問を禁じなかった。
↑原作でもエゼがアンに薬を渡す場面はあるが、ちゃんとマリアから依頼されたもの
天の教会が中途半端な仕事しかせず、マリアの落ち度を『待って』彼女が起因の現状を生み出し『反論の余地を奪い』、すべての状況の責任をマリアへ転嫁する、そんなストーリーに仕立てているのは、ちょっと無責任すぎやしないか。
これと似た感想を持ったのが『エヴァQ』。シンジを追い詰めるため、ミサト達がなぜか真実を話すタイミングが『合わない』。ここに製作側の意図が見え透いて萎えたことを思い出すのだ。
↑ミカエルとエゼキエルのワンシーン。槍を振るう時のミカエルは冷酷であり、エゼキエルの気持ちなど一切考慮しない。しかし一方で迷えるエゼキエルに言葉をかけ、エゼキエルもミカエルに言葉を求める。アニメ版ミカエルのような「槍は考えなくてもよい」と言う間抜けな言葉は吐かない。
■その『面白さ』は、何を土台としたものか
ストーリーも、キャラ紹介の時点で「教会側の人間と戦争に携わる人間が結託し、マリアの対立側につくだろう」「マリアの秘密を巡り、強姦を画策するシーンもあるだろう」と思っていし、概ねその通りになった。
つか、「オリジナル展開になる」「『地上の教会の人間』と『傭兵』」原作の『純潔を失ったら魔力も失う』ことを知った人間側が利用しないわけないじゃん! 美味しすぎるネタじゃん! でもこんなベタなギミックに引っかからないよね!…って思った時期がありr
ならこの先「司祭に離反する存在も現れるだろうし、傭兵の気骨は司祭の思い通りに動くことを良しとしないだろう」とも思えるし、「まだエドウィナの使い魔が人間の姿で登場していない、ということは、どこかで最後のキーポイントとして登場するだろう」とも考えられる。
↑エドウィナの猫ちゃんサキュバス。名前はまだ無い。すごく可愛くてすごく優秀。アニメではあれかなあ…となんとなく。なんとなーーく憶測
オリジナルキャラはとても魅力的だ。ガルファのような野心的な傭兵、ベルナールのような政治家的立ち回りをする司祭は、華を添えて引き締めてくれる。実際、彼らの織り成すドラマは深くて苦い重みを与えてくれる。でも、その面白さは原作を地盤沈下させた舞台でしか、発揮できなかったのだろうか。
そんなことは無かっただろう。彼らほど強力な毒を持ったキャラなら、原作のポテンシャルを持ったままのマリアでも対峙できたはずだ。教会もただの『マリアから観ての悪』ではなく、それこそ『教会内部にも親マリア派が存在、天の教会が介在するなら、人の手で触れてはならないと考え、ベルナールと対立する』とかすれば、もっとダイナミックなドラマになったかもしれない…ああでも、1クールでまとめるのはちと難しいか…。
もちろん、谷口悟郎だから残り4話も堅実かつ手際の良い『見せ方』で、クライマックスへの期待は充分肯定できる。ただ「すごくうまいのよ、でも、純潔のマリアでは、こういう形でのオリジナル化はやって欲しくなかったね」としか言えなくてつらいのだ。
中世考証もすごくいいと思った、最初のうちは。本当に頑張ってると思う。だけど、今では考証がストーリーよりも前に出すぎて分離気味。「私、別に歴史のお勉強の為に観てるんじゃないけど…」と思う時もある。申し訳ないが、『時代考証をやりましたーアピール』ばかり前に出てる気がして、肝心の『純潔のマリア』と言うお話にいまひとつ馴染んでない気がする。
重厚な内容に、かわいい絵柄が馴染んでないというのも大きいかもしれない。あの手の絵柄は、『サマーウォーズ』レベルで常に動き続けないと間が持たないのだ。しかし作画のレベルにばらつきがあり、維持していくのは難しいかもしれない。かわいいマリアのアップばかりでは、お話は構成できないのだ。
↑そういえば、アニメの戦場はいつも平野だな…。時代考証も大切だけど、やはり『石川雅之の描いた100年戦争の一コマ一コマ』をアニメできちんと再現し、その中を飛び回るマリアを観てみたかったと、心から思ってしまうのだよ。っていうか、アニメの製作側が『原作の絵を動かす腹づもり』あってアニメ化したんだと思ってたんだけどね。全てとは言わないまでも
『蟲師』とまでは行かなくても(あれこそ神の所業)、『進撃の巨人』『ジョジョ』等、原作をしっかり再現したアニメもある。オリジナル展開を加えたとしても『蒼き鋼のアルペジオ』や『シドニアの騎士』のような、キャラクターを原作のイメージほぼ再現し、原作とアニメがきちんと両立できる作品もある。
ましてや『純潔のマリア』はすでに完結。だから、これらの作品と同レベルで楽しめると思ってました。しかしここに来てそれは望むべくも無いと分かった今、ここに吐き出してしまおうと思った次第。
アニメはもちろん、アニメとして手堅くまとめられ、一定の評価を経て成功と呼べるものになるでしょう。原作を手にしてもらう機会が増えたことは、ファンとしても大いに喜ぶべきものであり、なんら文句のつけるところではありません。
繰り返しますが、この感想や考え方は、あくまで私個人のものです。アニメ版を面白いと思う人を否定するものではありません。単に吐き出して楽になりたいがための、ただの愚痴です。「今のこのアニメ化を適当に『まあ、アニメはアニメ、漫画は漫画』と大人の顔して割り切ってぬるく誉め、後で原作を心から大切にした再アニメ化があった場合『やっぱりこういうのが観たかったんだ』とテノヒラクルーになるのはかっこわりい」と思って、一応予防線張っただけです。
この先どんな展開になるかは、分かりません。地上の教会、地上の人々、天の教会との決着を経て、あのラストに至るのか至らないのか。とりあえず、最後まで観るつもりではいます。
この、エゼキエルの「一人の女の子として、何を望むのか」に対するマリアの返答。この悲壮な覚悟のマリア、アニメで観たかったなあ。この後ミカエルの槍に貫かれて、地上で傭兵にボコボコにされるけど。
3.8追記:『純潔のマリア』第9話「一つまみの塩を(CUM GRANO SALIS)」は実況のみチェックしましたが、ベルナールが自己崩壊を起こしたもようですな。しかし正直レイプ展開はそれが未遂であっても胸糞案件でした。強烈な印象を残すには手っ取り早いものでしょうが、原作ファンとしては一番やって欲しくないものでしたからね。ゴロー吊られやがってバーカバーカ、そんなに自分好みの展開にしたいならオリジナルでやれ! ってのが率直な意見です。